
アフリカ大陸一帯にコーヒーの木は広がっていた。
今から1千万年前、アフリカ大陸の東側が割れた=「アフリカ大地溝帯」•••エチオピア〜タンザニア
これにより植物の東西の行来がなくなる。コーヒーも多様化した。

しかし300万年前の氷河期によりコーヒーもたくさん死に、野生で現在まで残っている種類は氷河期を乗り越えてきたもの。
125種類•••アフリカに48種、マダガスカル島に64種、オセアニアに13種。
飲料用として使われているのは3種類のみ
・アラビカ種
・ロブスタ種
・リベリカ種
アラビカ種が約70%、ロブスタ・リベリカで約30%
アラビカ種のみ自家受粉可能。その性質により世界に広がった。
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イスラム教とコーヒー
6世紀
エチオピアがイエメンを侵略→この時にアラブにコーヒーが伝わる。
アクスム王国(エチオピア北部)(キリスト教の国)
↓
アラブのイスラム教の国が貿易で力を増しているからと対抗して貿易を始める。
奴隷を売るために奴隷を探し求めてエチオピアを南下。
その中でコーヒーを飲む民族を見つけ、奴隷としてアラビア半島に連れて行った。
その過程でコーヒーが広まっていったのではないかと言われている。
世界最古のコーヒーについての文献は10世紀初め
世界の学問の中心ペルシャの医学書にコーヒー(ブン)について記されている。薬として使われていた。
※ブン•••15世紀以降のアラビア語でコーヒーの意。
15世紀
アラブではスーフィーと呼ばれる厳格なイスラム教信者が眠気を抑え祈りに集中するために”カフワ”と呼ばれる飲み物(今でいうコーヒー)を飲んでいた。
カフワ・・・眠りを防ぐものという意味。コーヒー、ワイン、カート(エチオピアやイエメンで伝統的に使われていた植物の葉のお茶)をまとめてカフワと呼んだ。
スーフィーがコーヒーを広めていく中で反対運動が各地で広がる。
なぜなら、、、
①”カフワ”と呼ばれていたためアルコールと誤解されていた。
②コーランの中に”炭”は食べてはならないという記載があり、コーヒーも焙煎して黒くなるので炭と同類なのではと物議を醸した。
イエメンでコーヒー弾圧が始まり、コーヒー豆が燃やされた。
また、コーヒーを飲んだイスラム教徒はムチ打ちの刑に処された。
この頃トルコ イスタンブールでは”コーヒーの家”というコーヒーを飲む社交場の世界最古のカフェが誕生していたが、弾圧により襲撃される。その後カフェ閉鎖令が出される。
1633年にはイスタンブールコーヒー禁止令が出され、コーヒーを飲んでいるのが見つかったら即死刑とされた。
なぜこんなに厳しい措置が取られたのか?
スーフィーが政治的に力を持ってきていたため、スーフィーを排除したいというのが目的だった。
17世紀初め
アハメッド1世(コーヒー賛成派のイスラム教徒でイエメンを統治していた王様)が
「コーヒーは炭ほど強く焼かれてはいない」
とコーヒーを定義したことにより、イスラム教でコーヒーが認められた。
”カフワ”から”コーヒー”として独立し、世界全体に広がっていった。
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コーヒー世界へ
1536年
オスマン帝国(現トルコ)の重要な輸出品となりトルコ人は栽培を独占。アラビア半島から結実能力のあるコーヒー豆の持ち出しを禁止した。
15世紀末にはイスラム圏全域に広がった。
アラブにおいて厳重に管理されていたコーヒー豆だが、メッカを巡礼したムスリムによってイエメンからインドへ持ち込まれる。
(ババ・ブータンという名のムスリム巡礼者がコーヒーの種を7粒革紐で腰の周りに巻いてイエメンから密輸したと言われている。)
インドで栽培されたコーヒーの木はオランダ人によってインドネシアのジャワ島に移植され、スマトラ島や東インド諸島でも栽培が始まった。
1640年代にはオランダの商人によって商業用にコーヒー豆がヨーロッパに輸入され、アムステルダムで売りに出されるとヨーロッパ各地にカフェが開かれた。
1652年 ロンドン
1666年 アムステルダム
1671年 パリ
”コーヒーハウス”•••アルコールがなくて人が集まれる場所。議論が理性的にできる。新聞や雑誌もコーヒーハウスから生まれた。
その後ヨーロッパを経由し、1723年にはフランスの植民地であったマルティニーク島へ移り、ハイチで生産されたコーヒー豆がヨーロッパの消費を支えた。1750年にはハイチは世界一の生産国に。

1727年には今や世界最大生産地のブラジルに渡る。
ブラジルではコーヒー栽培に多くの奴隷が導入され、非人道的扱いをされていた。
背景にコーヒーの栽培があったためにブラジルの奴隷制度が世界で最も遅い1888年まで続く。
ブラジル→アメリカへ輸出
【アメリカ 1773年 ボストン茶会事件】
イギリスの植民地であったアメリカのボストンで起きた政治的事件。
イギリスはフレンチ・インディアン戦争(七年戦争)で莫大な戦費を抱え、アメリカ植民地に課税を強化。
植民地にはイギリス議会に議員がいないのに課税されるのは不当だと強い反発があった。
さらに「茶法」が制定され、東インド会社が植民地で独占的に茶を安く売れるようになった。これにより地元商人や密輸業者が打撃を受け、さらに反発が広がった。
ボストン港に停泊していた東インド会社の船に対し、植民地の急進派が船に積まれていた45tの茶葉を海に投げ捨てた。

アメリカはイギリスからの独立を目指すようになり、紅茶ではなくコーヒーを飲むことが愛国的な態度とされた。
1861-65年 アメリカ南北戦争 特に北軍の兵士の間でコーヒーを飲む習慣が広がる。
北部:アメリカ合衆国を維持しようとした側。産業・商業中心。奴隷制には否定的。
南部:脱退して独立国家を樹立しようとした側。プランテーション農業中心。綿花やタバコ栽培に奴隷労働が不可欠。
※最大の争点は奴隷制をめぐる対立だった

特に北軍の兵士の間でコーヒーを飲む習慣が広がる。
1860年代以降の工業化で労働者の間でコーヒーが広がる。
19世紀末にはアメリカは世界中のコーヒーの半分近くを消費するようになる。
のちに奴隷制度がなくなりイタリア、スペイン、ドイツなどからのヨーロッパからの移民が労働を担うようになるが、待遇の悪さなどからイタリア人移民が反乱を起こし、移民政策が中止となり農業労働者不足となる。
そこでブラジル政府は日本人移民の受け入れを表明し、1908年、日本からの移民はコーヒー農園などで働いた。
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まずはここまで。
歴史についてお恥ずかしながらトント疎くて今回改めてまとめてみて点と点がようやく線に繋がった部分が多かった。
コーヒーの魔性の力に改めて慄いたりして。
コーヒーに限らず世界史についてもすこーーーーしだけ知識として頭に入ってきたのでせっかくなので歴史について少しづつ勉強を続けていこうかなと。
学ぶことに遅すぎることなんてない
今が人生で一番若い時(´⌯ ̫⌯`)


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